2.旅立ち
1990年秋
僕ももう2歳を迎えて秋になってしまった。新井さんは僕をどうするつもりだろう。2歳の秋の市場に出してくれないんだって。肢が曲がっているから絶対売れないからって出してくれないらしい。このまま、この牧場に置いてくれるのかなあ。でも、いつかやっかいものになるよ。そうなったら、...いやだ、絶対。僕も競走馬として生まれたんだから競馬場で走ってみたいよー。
そんなことを考えているうちに、放牧場の周りが騒がしくなってきた。なんだろう。親分、もとい新井昭二さんと見知らぬ人が話をしている。聞き耳を立てるとこんなことを話していた。
男:「新井さん、パークの2歳はどうして市場に出さなかったのかい。楽しみにして北海道までやって来たのに。出てこないもんだから押しかけて来ちゃったよ」
新井さん:「見ての通り、大きくなるに連れて前肢が外を向いてなあ。これじゃあ売り物にならんから市場には出さなかったんだ」
男:「う〜ん。そうか。惜しいなあ。姉さんのドラゴンエフの活躍を噂に聞いてたから。楽しみにしていたのになあ...!どうだろう、この仔をうちで引き取らせてくれないか。なんとか走らせてみたいんだが。」
新井さん:「そうか...このまま置いておくわけにもいかんし。頼んだよ」
後で分かったのだが、この男の人は、園田競馬場の調教師だったそうだ。というわけで、僕は兵庫県の園田競馬場に貰われていくことになった。まずは牧場を出られてほっとしたけど、これからのことを考えると不安だらけだ。
1991年〜1992年秋
−訳者注:この間の事情を書いた日記がまだ見つかっておりません。ただ、ウイングは馬主さんから「バルセロナイチ」という名前を頂いたようです。バルセロナとはお母さんのおばあさんの名前を貰ったようですね。訳者も良く知らないのですが、やはりバルセローナは偉大な牝馬だったようです。噂によると、バルセロナイチは園田競馬場のトレセンらしき施設にも入ったらしく、いくらかは競馬に使われたのではないかということですが、詳細は調査中です。バルセロナイチ本人は、がんとしてその間の様子を話してくれません。余程のことがあったのでしょうか。調教師さんに直接聞いてみる機会があればそれも解決するでしょう。
1992年11月
僕は競走馬としてはやっぱり使えないらしい。無理をすると後ろ肢に負担がかかってきて後ろ肢が腫れてくる。調教師さんが言っていた。乗馬に転向させるんだって。僕が怖がりだから、去勢するんだって。それから、乗馬の訓練を受けて、どこかの乗馬クラブに売られていくらしい。競走馬から乗馬になる馬は毎年何千頭もいるということだけど、本当に乗馬になるのはその内の一握りなんだって同僚が言っていた。僕もほんとに乗馬になれるのかなあ。でも、もうすぐ去勢手術をするらしいから、ほんとに乗馬になるんだろう。調教師さんも新井さんから無理を言って引き取った馬だから、無事に余生を送らせてくれようとしているのかな。いい調教師さんだ。
1993年2月上旬
去年、去勢手術を受けてから乗馬の訓練を続けてきた。今日は乗馬クラブの人が来て僕を試してくれるらしい。最初に僕に乗ったのは、乗馬クラブCのA所長さんという人だ。バルセロナオリンピックの馬術選手候補にもなった人らしい。そんな人が僕に乗るなんておこがましいなあ。Aさんはさすがに馬術選手だけあってしばらく僕に乗って、馬場運動や障碍を跳んだりした後、僕の資質を読み取ってしまったようだ。側の人に話しをしているのを聞いてしまった。「この馬は乗馬の練習をするには最適の馬だね。決してキレた馬ではなく、自分の意志を持っているから、乗り手が意志を確実に伝えないと動かない。そこそこ障害も跳ぶし、長く付き合える馬だ。今度のオーナーにはぴったりの馬だな」。次に僕に乗ったのは現役の障害選手らしい。僕も馬だから1mくらいの障害なら軽く跳べる。この人も僕を気にいったらしく、僕を是非買いたいと言っていた。さあ、どちらの人が僕を連れて行くことになるのだろうか、僕も心配だ。
結局、Aさんが強引に僕を引き受けてくれることになった。Aさんの乗馬クラブで乗馬経験1年の夫婦が丁度、自馬(自分で所有する馬)を手に入れたがっており、今日はその馬を探しに来たのだと言っていた。園田の調教師さんが僕のことをAさんに紹介したということを後で聞いた。さあ、これで僕は3月から乗馬クラブで生活するのだ。聞くところによると、三重県の高原の麓にあるらしい。どんな所だろう、それにどんなオーナーが僕を買ってくれるのだろうか。